手紙
すばる様
一期一会とか方丈記とかお遍路さんとか芭蕉さん、は私のマレビトボックスに入っている言葉です。
それが折口信夫の言葉とも知らなかったのですが、心に深く刺さっています。
人は誰でもマレビトに会い、誰かにとってのマレビトであるのではないでしょうか。
そう思うのも年の功かな。マレビトによって自分の骨格が刻まれて来たと思います。
犬猫といえどそうであることには変わりません。それが忽然と姿を消してしまうのも必然かもしれません。どれだけの猫が飼い主を不幸のどん底に突き落としたことでしょう。
内田百間を持ち出すまでもありません。でもそれほど幸せな時間を分け合ったということだと思います。
ハナニアラシノタトエモアルサ。サヨナラダケガ人生ダ。 井伏鱒二「厄除け詩集」
偉そうにすみません。ふらりと帰ってくることを祈っています。
帰ってきたらこんなこと書いちゃってバカ見たいと思うでしょうけど、それを祈ります。
八十路なる父の車に友と吾と犬と来し山あけび花咲く (藍木綿 すばる)
天国のような歌ですね。
東京は疲れます。
ゴンベイ
涅槃西風病といえど先伸ばし
ペスト読了。つまんなかった。カミュの世界に入れなかった。
途中でペストとコロナを読み替えてみたんだけど。
結局どんな災害でも当事者にならないと身にしみないと思った。
コロナが流行っている世界だけど自分も家族知り合いもかかっていない。
コロナに罹った縁者がいる。
コロナに罹った。
と言う順番。
昔、ダンナの恩師が小学生に向かって
「君たちの未来を教えてあげよう。君たちは必ず死ぬ!」と言って子供達阿鼻叫喚、大問題になったそうである。でもそれが真実。
余談だがその先生は竹内栖鳳の孫で、宗教主任の時に執務室に伺ったら凝った刺繍の半襟が額装されて壁にかかっていた。プロテスタントの先生と舞妓の半襟がマッチしていた不思議。
春雨やコロナを流してくれたまえ
新潮社の全集、奥付は1964年。15歳の時に読んだことになる。
異邦人は数回読んだ覚えがある。「きょう、ママンが死んだ。」この出だしのインパクトが大きかった。「今日、母が亡くなった。」だったら違う世界だと思う。
で、「ペスト」読みはじめたが、なかなか入るのに時間がかかった。最近読書してないもんなー。最近の小説読んでもつまんないと思っていたが、古典になると歯が立たぬ、というのでは女が廃る。読み進むうちに、なんて華麗な文体なのだと思う。翻訳が素晴らしいのだろうけど何故こんなに今のものと差があるのだろうと、考え考え読むので尚更時間がかかる。まだ4分の1ほどしか進んでいないけど、大丈夫、もうオランの街が眼裏に浮かぶようになった。なんちゃって、読み終わったらまたご報告いたします。
新緑もさびしき銀座四丁目
ショートケーキ苺を高く銀座春 山口青邨
銀座の晴れがましさをショートケーキに託した句。
三越の地下に美味しい店があったけど撤退してがっかりしたものだった。
その地下食料品街もクローズしている今。
外出自粛要請ではなくて、はっきり「家から出るな」3週間、というようにキッチリ宣言して
感染をミニマムにするべきだと思う。このままではダラダラいろんなものが死んでしまう。
普通の日常をみんなで作ってきたのだということが、今はよくわかる。
私はちょろちょろ毎日出かけているが、手洗い、マスク着用には気をつけている。
地下鉄も遅く出かければ空いている。自分を守りつつ、できることはするしかないと思う。
週末は「ペスト」を読もう。
梅柄の手拭い折って作るもの
マスクを作らなくてはならない時代が来るとは思わなんだ。
切ったり縫ったりは得意じゃないので、手ぬぐいを折っただけ。30年くらい前から裁縫箱に入れておいたゴム紐がここにきて役立つなんて。断捨離しなくて良かったわ。
生きているリスクは常に涅槃西風
今のところ私の知り合いに、コロナの人はいない。知り合いの知り合いにも居ない。
だからこの非常事態がよくわからない。
コロナが流行りはじめたころ、正しく怖がれといわれたが、データがなくては判断できない。感染者数の把握を急いでほしい。
私は感染してる気がしないので平常心で過ごしている。生きていれば風邪も引く、交通事故にだってあう。毎日をきちんと見つめて生きたい。