黄金週間お針出来れば楽しからむ

 

 

中学の家庭科で最初に縫ったのはパジャマだった。

前の年までは浴衣だったと聞いて残念に思った。今も残念だ。

浴衣も着物も一反の生地を、法則通りに断って縫えば出来るもののようである。

その法則を知りたかった。1+1=2というように縫物が出来るのよ。その方式を戦前までは多くの人が知っていた。これがほんとうの教養というものではないだろうか。その伝統を断ち切った教育方針を恨む。学校で習うものは将来役に立つか立たぬかで判断されるべきではない。自分で勉強すればいいというものでもない。今の日本では着物が着られない人のほうが普通である。何でこんなことになったのだろう。縫い方を知らないというのが根っこにあり、正しく着なくてはいけないという重圧が強すぎたせいだと思う。

襟元は開きすぎてはいけない。帯はこう結ぶ、着物の格は外さない。もう無数に「でなくてはいけない。」がある。これって何かに似ていないだろうか。英語教育もこれなんじゃないだろうか。私の世代は中高6年間英語を学んだ。それなのに何故こんなに話せない人が多いのか。恥をかきたくない、間違いたくない。これだけなのではないか。外人だけの中で話すときは破れかぶれでオッケーでも、日本人が混ざると黙ってしまう。英語の電話をとっても、得意な人に回してしまう。要するに着物でも英語でも日本人同士のプライドがお互いを潰しあっているように見える。

早くこんなことはやめようではないか。

先日銀座通りで若い女性が、プリーツスカートにパンプスをはいてその上に短く着物を着てもちろん帯も締めて歩いているのを見た。あ、これはいい。歩くのにストレスがない、裾さばきも気にならない。こーいうトレンドがあるのかどうかは知らないけど、どんどん崩して今風に着こなせばよい。今までどおりが好きな人はそのように、そうじゃない人も適当に着ればいいのだ。英語だって通じればいいのだ。6年間の蓄積があれば誰だって話せる。確信をもってそう言える。だつて「山、川」ってすぐ言える。そんな外国語他ににありますか。捨てるべきは体面だけである。そう思うとオリンピックは破れかぶれ英語を使う絶好のチャンスであった。残念ね。

 それでちょっと元に戻りまして、「中学校で浴衣を縫って夏の校庭で盆踊りをやる会」って作ったらどうかしら。

地域おこしになると思うのだけど。