稽古事芸事となり穴惑い

 自分の時間が出来るようになると、昔習った稽古事に再突入する人が増える。子供の時はお稽古であったが、老境に入って始めるのは芸事である。
どう違うかって、稽古事は未来のためである。芸事は今の自分のためだ。自分で始めるのである。お金も自分で払うのである。つまり真剣なのだ。残された持ち時間でどこまで行けるか、無駄にできる時間は少ない。
 子供の頃、私は母の達せられなかった夢と思われる、バレエ、ピアノ、習字を習い、いずれも挫折した。ピアノが一番長く10年近くは習ったと思うが、周りの友が音を聞くだけでスラスラ楽譜に書き込むのを見てこれはダメだと思った。母の思いがよくわかる今になって、続けなくて申し訳なかったと深く思い、上手くならなくても小曲くらい弾けるように続けていればよかったと思う。後悔先に立たず特段の趣味を持たず年老いた。
 しかし何度も書いて恐縮だが、還暦目前に俳句を始め、師匠句友に恵まれ、続けて8年になる。俳句を始めるまでは「詩歌」というものに全く興味が無かったのだからどうかと思う。セッセとこさえている俳句もほぼつまらないものである。つまらないということが最近よく判るようになったのでなお辛い。しかし俳句には句会という遊びがあるのだ。この面白さというのはやってみないと説明できない。それは同好者で合わせる楽器とか合唱の楽しさに似ているかもしれない。人間気の合う仲間と何かを為す楽しさは誠に得難い楽しみで生きていてよかったと思う。
 というわけで、日々、芸術を仕事としている諸先生のご苦労を思いながらも、じたばたと素人芸道に励む、暮れゆく秋であります。


芸事ってなんのことだと花に問う