礼拝堂紙魚のにほいと賛美歌と


大学の恩師の追悼礼拝に行く。卒業以来初めて訪れる礼拝堂。古色蒼然とした佇まい、窓からこぼれる灯火の色、まわりのビル群といいたいような学び舎と一線を画している。簡素な礼拝堂に80名ほどの参列者であった。先生は、この1月に96才の天寿を全うされたが、90才まで学校の仕事につかれていたそうで、引退される際、これからどうなさいますか、との問いに「妻の看護に励みます。」と仰ったそうだ。病床の奥様に、われわれの結婚はどうだったのだろうか、と尋ねて「あなたのこと大好き。」と言われた、とのろけられた、と長年のご友人がお話しされた。三つの大学の学長をなさった先生だが大変なご苦労があったことも知った。要するに卒業してから先生のことは何も知らない40年間であった。そんな私だが忘れられない思い出がある。伊豆にみんなで旅行に行った時、海岸のビーチパラソルを、先生は必ずピーチパラソル、と仰るのだ。長くアメリカに留学されていらっしゃるのだから間違えるはずは無い。つまり先生はあれを桃形の傘と思っていらっしゃるのだな、と思った。以来あれを見る度に私は先生を思い出す。こんなことしか思い出として言えないのはホントにどうかと思うが、大好きな先生だった。前の週に同じ学校の別の集まりがあった。テーブルの隣の方との話の中で、先生が亡くなられたこと、追悼礼拝があることを教えていただいた。生徒でしたと出て行くのもおこがましいように思ったが、これは先生が呼んで下さったのだと思って参列した。40年なんてあっという間だったというのが実感だ。遺影の前で、「田島信之先生ありがとうございました。」と心の中で言った。せんせいありがとうございました冬日ひとつ という池田澄子が三橋敏雄を詠んだ句があったな、と思った。


せめて手向けん野の花を